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漢末の早期道

 漢の終わり頃には、異常な災害が続き、人々の生活は安定せず、「人々が互いに食い合う」という惨状も見られた。官吏は腐敗し横暴になって、人々の財貨を厳しく取り立てたので、多くの人々は貧困に陥った。そのために、流民が増え、盗賊が横行し、機に乗じてさまざまな集団が組織された。太学生は朝廷の政治を批判し、党錮の禍が起こり、朝廷は冤罪事件をでっちあげ、世論を抑圧して太平を装った。漢王朝は人心を失い、国民は変化を望み、占いが流行した。人々は平和で豊かな新しい世が到来することを切望していた。苦しむ人々は宗教を求めるが、早期の中国道教−太平道と五斗米道は、どちらもこうした時代に誕生した。魚豢の《典略》には次のように記載されている。  
 はじめ、熹平年間には、妖賊が大いに起こり、三輔に駱曜がいた。光和年間には、東方に張角があり、漢中に張脩があった。駱曜は人々に緬匿法(《墨子五行記》の中の隠身の術である)を教え、角は太平道を創始し、脩は五斗米道を創始した。太平道は、師が九節の杖を持って符祝を行い、病人に叩頭して過ちを思い起こすことを教え、それからこれに符水を飲ませた。病気が軽くなりそして治癒した者は、この人は道を信じていると言った。また治癒しなければ、道を信じていないとした。脩の法は角とほぼ同じで、静かな部屋に入らせて、病気の者にその中で過ちを思い起こさせた。また人に姦令や祭酒をやらせた。祭酒は主に《老子》五千文をみんなに教え、姦令と呼ばれた。鬼吏は、主に病気の者に祈祷を施した。祈祷の方法は、病人の姓名と罪に服するという意味のことを書かせる。それを三通を作り、その一通を天に捧げるために山上に置き、一通は地に埋め、一通は水に沈め、これを《三官手書》と言った。いつも病気の者には家から五斗の米を持ってこさせていたので、五斗米師と呼ばれていた。実際には病気の治療に益はなく、度の過ぎた妄想に過ぎなかったが、小人は愚かにも昏迷した。つまりどちらもそういうことである。後に角は誅を被り、脩も亡くなった。魯は漢中の人々が脩の業を信じて行ったので、これに装飾を施した。教使は義舎を作り、米や肉を置きその中に人を行かせなかった。また教使は自ずと隠れ、小さな過ちのある者は、道を百歩治すことによって罪を除いた。また暦に従って、春夏には殺を禁じ、また酒を禁じた。流浪してその地にやって来た者は、奉じないではいないだろう。
 太平道の首領の張角は、冀州の鉅鹿(今の河北省平郷)の人で、もともとは黄老道の信徒だった。彼は黄老道に伝承されていた《太平経》を読み、漢の霊帝の建寧年間(168〜171年)に布教を始め、自ら「大賢良師」と称し、太平道を創立した。《資治通鑑・霊帝記》には、「鉅鹿の張角は黄老を奉じて事とし、妖術を以て教授し、太平道と号す」と書かれている。「妖術を以て教授し」というのは張角が黄老道を旗印にしながら《太平経》を布教したことを指している。異端の教団を建立したと言われるが、いわゆる「異端」は、朝廷が崇めていた黄老道に対して言っているだけである。道教の歴史から見れば、太平道と五斗米道はどちらも黄老道が変化して出来た早期道教であり、「異端」であるということはない。さて漢代の皇帝および官府は黄老道を奉じてはいたが、《太平経》を読むことはなかった。これは宮崇・襄楷などが度々《太平経》を献上したが、順帝・桓帝はそれを取り上げなかったのである。しかし、黄老道はすでに朝廷に認可されていたので、民間の黄老道の指導者はそれを隠れみのにしながら異端の教団を組織し、また農民を蜂起させたりした。桓帝の建和二年(148年)に長平の陳景や南頓の菅伯が起こした農民蜂起はその例である。張角は太平道を創立すると、はじめのうちは符水・咒語で病気を治療することによって布教していった。「中黄太乙」(黄老道の太一神)を最高神として奉じ、人々に善を行い道を信じることを勧め、布教を開始してから十余年も過ぎると、信徒は数十万に達した。漢末の社会危機が激しくなると、「漢行すでに尽き、黄家まさに興るべし」という予言が人々の心に深く入り込み、張角は8人の弟子を四方に派遣して布教させた。青・徐・幽・冀・荊・揚・・豫の八州の人々はそれに共感し、家財を投げ売って張角に頼っていく人も少なくなかった。張角は36の方を作り教団を統括した。張角の太平道の教団は軍隊に準じて組織され、大方は1万人余り、小方は6〜7千人で編制されそれぞれに首領を立てていた。張角は自ら「天公将軍」とも称し、その弟の張宝は「地公将軍」、張梁は「人公将軍」と称した。そして、「蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし、歳は甲子にあり、天下大吉」というスローガンを掲げ、教団の信徒には黄色の布を着けさせ、中平元年(甲子の年、184年)3月5日(甲子の日)に「黄天泰平」の世界を建立するために挙兵することを城での会合で取り決めた。張角は弟子の馬元義を首都に派遣し、中常侍の封・徐奉が内応するように取り計らった。しかし、唐周が裏切り密告したので、馬元義は朝廷の軍に破れ千人余りが殺され、武力革命は予定より十日以上早く決行しなければならなくなった。太平道の信徒による黄巾の乱はものすごい勢いで短期間のうちに全国に波及した。州都は攻め落とされ、官僚は逃亡し、首都は震撼した。そこで朝廷は党派を弾圧するのをやめ、世の中の党人を大赦して人心を集めた。また、皇甫嵩・朱儁・盧植らに軍隊を統括させて鎮圧にあたらせ、各地の地主の兵力も動員させて農民階級の反乱の鎮圧にあたらせた。張角の太平道は早期道教の結社だったが、この黄巾の乱は宗教の名を借りた農民の反乱にすぎなかった。それは結局、「勝てば王、負ければ寇」という中国の農民の反乱の模式から抜け出せず、朝廷が代わるための布石となっただけだった。黄巾の賊の軍隊はこちらで起こってあちらで消え二十年以上も戦い続けたが、結局国家機関に鎮圧されて終わった。しかし、西漢王朝も黄巾の乱という大事件の衝撃でやがて滅亡していった。五斗米道の情況は太平道とは違っていた。それは歴史的にも延々と存続し、次第に栄えやがて中国道教の正統派となった。五斗米道は張陵・張衡・張魯の三代が創立した。張陵はもともと沛国(今の安徽省)のの人で、張良の9代目の子孫であると公言している。もともとは太学生だったが、漢の安帝の延光四年(125年)に道を学び始め、《黄帝九鼎丹経》を得て長生の術をマスターし、広く弟子を集めた。漢の順帝のときに蜀に入り、鶴鳴山(今の成都市大邑県内)に住み、道書二十四篇を著した。《三天内解経》、《漢天師世家》などの書物の記載によると、張陵は順帝の漢安元年(142年)に鶴鳴山で太上老君の命を受け、天師の位に封じられ、新しい「正一盟威の道」を得たと公言した。千人余りの弟子を率い、四方に布教し、祭酒道官制度を作って教団の信徒を管理し、天師道を創始した。
天師道というのはもともと張陵の教団の自称であり、正一盟威の道を伝えているので、のちには正一道とも名乗った。 天師道の創立によってはじめて中国道教が成立したので、中国道教は紀元142年に張陵によって創立されたものであると考えるべきである。
 漢末の巴蜀の地域には、もともと巫鬼道の信仰があった。当時の四川は湿っぽく、流行病がはやると、生きていた人でも不意に亡くなることがよくあった。盗賊が多く、むやみやたらと祭祀を行い、民衆は巫や鬼を信じていた。当地の巫覡は機に乗じて神を装い鬼を弄び、財貨を厳しく取り立て、巫鬼道は四方に伝播した。張陵は漢の安帝の時に道を学び、黄老道を奉じていた。だから、太上老君を奉じたり黄帝九鼎丹法を習ったりしたのである。張陵とその弟子が中原の黄老道を巴蜀に持ち込むと、その地域で盛んに行われていた巫鬼道とすぐに軋轢を生じた。張陵の布教活動は、巫覡が衣食のために頼っていた巫鬼道の信徒を奪い取ることになったので、当然巫鬼の反発を招いた。道書の中には張天師が四川で太上老君の剣印と符で鬼兵と戦ったという伝説が載っているが、これはこのような衝突を反映しているのである。張陵の創始した天師道は、実際には《太平経》によって布教活動を行う黄老道の異端教団であり、その布教の仕方は太平道と似通っている。張陵は符水によって病気を治療し、行気・導引・房中などの長生術を教えて布教した。太学の役職である「祭酒」という名前(張陵は太学生だったが、漢の太学には祭酒という役職があった)を教団の役職の名前として用いた。太上老君を教主とし、《三官手書》によって教団の信徒に善を行い過ちを悔いることを勧め、橋や道路を修理させ、交代で米・絹・器物・紙筆・薪・日用雑貨などを上納させた(葛洪《神仙伝》)。張天師は戒律を制定し、「太清玄元」の神を崇め、邪道に誘う鬼を祭ることを禁じた。また、鬼を駆り鬼を殺す法術を伝え、教団の信徒が鬼を信じたり恐れたりしないようにした。彼は公正な規則によって人々を統治し、人々を病気から救っただけでなく、度の過ぎた祭祀や盗みも断ち、社会風紀を整えたので、非常に人々の心を得た。道教は盛んに伝わり、当地の巫鬼道の巫覡もくら替えして天師道の祭酒・道民になり、天師道は四川に次第に根をはっていった。天師道の宗教としての質は当地の巫鬼道より遥かに優れていたので、天師道は四川に大きな影響を与え、「鬼や巫を好む」少数民族でさえ次々に天師道を信奉するようになっていった。
張陵は桓帝の永寿三年(157年)に世を去り(《猶龍伝》。一説には永寿二年に天に上ったということが《漢天師世家》に見える)、その子の張衡がその跡を継いだ。しかし、張衡が霊帝の光和二年(179年)の正月に死ぬと、巫鬼道が再び盛んになった。巴郡の巫人の張脩は天師道の制度を取り入れて巫鬼道を改造し、天師道と巫鬼道を一つにし、「鬼吏」を設けて鬼道の信徒を統括した。また、《三官手書》によって祈祷して病気を治し、病人の家からは五斗の米を出させた。張脩の巫鬼道の教団では教団の役職の者は鬼吏と呼ばれ、一般の信徒は鬼卒と呼ばれ、教え指図する者は姦令と呼ばれた。布教の手続きや教団に対する献金を簡略化し、一律に五斗の米を収めさせたので、その教団は米巫・米賊とも呼ばれた。張脩の教団は急速に勢力を増し、漢の霊帝中平元年(184年)の秋七月には、その鬼道の軍隊は中原の黄巾の賊と呼応して挙兵した。その軍隊は「五斗米師」と呼ばれ、郡県を攻め落とした。益州の劉焉は漢の霊帝中平五年(188年)の末に蜀に入り、張脩に投降帰順させ、張脩の五斗米師を接収改編し、張脩を別部司馬に封じた。当時は黄巾の乱のあとで漢の王室は衰退し、天下の豪傑はそれぞれが霸者となることをもくろみ、城を攻めて地を略奪していた。劉焉にも特別の志しがあったので、「米賊が道を断ったので、帰るここができない」という名目で朝廷に貢ぎ物を収めなかった。道術養生によって若々しい容姿を保っていた張衡の妻が劉焉の家に行き来して布教すると、劉焉はその美貌に喜び、その子の張魯を督義司馬に任命した。劉焉は張魯に別部司馬の張脩と共に漢中の太守の蘇固を攻撃させた。張魯は張脩と蘇固を奇襲したあと、張脩も襲って殺し、全軍を掌握した。張魯は教団での祖父や父の威信を利用して教団の権力を奪い返した。劉焉の死後、その子の劉璋が立ったが、張魯は従わなかったので、その母と弟を殺された。そこで張魯は自ら漢中に立ったが、朝廷の力では張魯を征伐することができなかったので、朝廷は張魯に鎮夷中郎将という名義を授けた。張魯は漢寧太守におさまり、漢中に道教王国を建てた。《三国志・張魯伝》には次のように書かれている。
魯は漢中にいて、鬼道を人々に教え、自ら「師君」と号した。その道を学ぶ者は、はじめはすべて「鬼卒」と呼ばれた。本当の道を教えられそれを会得できると「祭酒」と号した。それぞれの部を統率する人は、ほとんどが「治頭」や「大祭酒」である。みんなに誠実であって偽りで欺くことのないように教え、病気になるとその過ちを告白させ、ほとんどは黄巾と同じだった。諸々の祭酒はみな義舎を作り、現今はそこに滞在して伝えた。また米や肉を義舎に掛け、路を行く者は腹を量って足るだけを取ったが、もし多すぎると、鬼道によって必ず病気になった。法を犯す者は、三度までは許されたが、それ以上になると刑罰を受けた。長吏は置かず、すべて祭酒が治めていた。人々は平穏安楽で、巴蜀に三十年間続いた。
張魯の教団は、張脩の鬼道のしきたりを踏襲し、張陵の道法に従いながらも装飾を施し、やはり天師道と称していた。張魯の天師道は、実際には張陵の道教教団と張脩の鬼道の結合体だった。五斗の米を収める規定が教団にあったので、社会一般には「五斗米道」と呼ばれたが、相変わらず「鬼道」と呼ばれることもあった。張魯の教団では張脩の影響を排除し、張魯の祖父である張陵を天師、父の張衡を嗣師として奉じ、張魯自身は「師君」と名乗り、教団内では系師(孫師?)とも称した。天師道は三張の師によって完成したのである。道を学びに来る者は、はじめは張脩の鬼道の習慣に従って「鬼卒」と呼ばれたが、道を教えられそれを会得すると、張陵の教団の規定に従って「祭酒」と呼ばれた。これは張陵の教法が張脩の鬼道より勝っていることを明示している。しかし、教団内には鬼道巫術が多く残っていたので、やはり鬼道とも呼ばれた。張魯は漢中での自身の権力を利用して政教合一の二十四治を建て、治頭・大祭酒に民衆を治めさせ、義舎を建てた。刑罰を軽くし、殺しを禁止した。酒を禁止し、税として米を治めさせ、戸籍を作った。また張魯は《老子想尓注》によって教団の信徒を教化し、張陵の黄老信仰を保持して五斗米道の宗教性を向上させた。のちの歴史家は、張魯が教えを立てる過程を、三張と張脩の事跡も区分せずに書き記し、天師道・五斗米道・鬼道の名称も混同して用いている。これに加え、道書のなかでは三張を神聖化し、史実と矛盾することも多く書かれている。今、史料をもとにしてこれを正し、読者に天師道が創立された明瞭な過程を示しておいた。
張魯は漢の献帝建安二十年(215年)に曹操に投降すると、鎮南将軍に任命されて中の侯爵に封じられ、教団の信徒を率いて曹操と一緒に北へ移った。その次の年、張魯は亡くなった。おくり名は原侯であり、城(今の河北省臨)に葬られた。その後、天師道は四川での早期道教結社の素朴な形を脱却し、中原の士族社会に伝播した。天師道という名前が一般的になり、五斗米道や鬼道という呼び方は次第に用いられなくなった。漢末の三張の五斗米道と張角の太平道は、どちらも早期道教と呼ぶことができる。まとめると、早期道教には次のような特徴がある。
1、早期道教は主に社会の下層で苦しんでいた民衆の間に伝播した。病気を治療し災いを消すことが現実の教えの主旨であり布教の手段だったが、長生成仙を長期的な目標にしていた。太平道や五斗米道はどちらも《太平経》によって教義を作った。三張は四川の民情が造り出した《老子想尓注》とも結び付き、それを信徒に読ませた。災いや病気はすべて「故気」の祟りであり、道を信じて「道気」が「故気」に取って代わらなければならないと教えた。
2、早期道教はなんでもかんでも祭祀することに反対したので、道教信仰が民間の俗神信仰に取って代わった。しかし、方術には依然として巫術が残っていて、民間の巫祝と闘争しながらもそれを包容しているような状態だった。
3、早期道教には系統だった宗教組織があったが、その組織系統は漢代の国家の行政制度に倣って作られたものである。たとえば、五斗米道は二十四治の教区制度を作ったが、実際にはこれは漢代の郡・県・亭の行政管理制度の宗教化であり、政教合一の特質を備えていた。神霊の保護という宗教行為の名目で用いられた三張の道民命籍制度は、漢代の戸籍制度の模倣であり、五斗の米を受け取る制度も漢代の課税制度を宗教化したものである。信徒に《老子想尓注》を読ませたことも、人々に《孝経》を読ませた漢の制度の模倣である。これらのことは早期道教がまだ素朴な状態だったことを説明している。
4、早期道教は、統一された教主・教義・戒律・宗教儀式を次第に形成し、道教教団の階層に従った宗教職業者がいて、倫理型宗教の一般的な特徴を備えていた。三張の《老子想尓注》は信徒の宗教感情を育てることに気を配り、「善功を積むこと」、「道戒を奉じること」を教えるのが布教の最初の仕事だった。五斗米道には多くの教規科儀と塗炭斎などの古い素朴な斎法もあった。
漢の順帝の時から東漢の終わりにかけて、道教は創始された。漢末の社会危機は道教を成熟させ、早期道教は宗教性を充実させないうちに慌ただしく社会の表舞台に登場した。中国道教の政治活動が失敗に終わると、道教の発展はまたペースダウンし、魏・晋の時代にはその宗教性をさらに向上させなければならなかった
 もう一つはっきり述べておかなければならないことは、漢末の早期道教は黄老道から変化したものだが、それに伴って黄老道が完全に失伝したのではなく、その方士たちは早期道教の道士に転化したということである。中国は広大なので、各地区の文化は不均衡であり、宗教も一斉に変化するようなことはありえない。漢末には黄老道だけが伝わっていたのではなく、黄老の術を学ばない方仙道の方士もやはり積極的に活動していたし、各地の巫覡もなりをひそめていたわけではない。江南の呉越の文化地区は、早期道教の活動の中心からは離れていたので、黄老道が伝播して盛んに行われていた。漢末の桓帝の時には会稽の虞の人である魏伯陽は、黄老養性の術・漢代の易学・金丹術の3つの原理には共通するものがあり一つに融合できると考え、《周易参同契》を著して次のように述べている。「大易の情性は、陰陽の消長で法度に外れることはない。黄老の学は宜しく用いてその根源を究め、相較べて心身を治むべきである。炉火の外丹は無稽の言ではなく、真によるところがある。三者はそれぞれ径路を出だして造化を成すものであるが、その本源は一つの道に帰するのである」。この書は隠語で書かれたもので、方士たちの口訣秘伝の決まりに従って黄老道の中に伝承されていった。《参同契》は、葛洪の《神仙伝》・《旧唐書・経籍志》に記載され、《北堂書鈔》・《顔氏家訓》・陶弘影の《真誥》にも用されている。唐代の陸徳明の《経典釈文》にさえ虞翻の注釈した《参同契》を記載しているので、《周易参同契》が漢代に作られたことはほぼ間違いない。《周易参同契》は後世の外丹家や内丹家に丹経の祖として奉じられ、「万古丹経王」と呼ばれることもあり、仙学への影響は非常に大きい。《参同契》は、秦・漢以来の神仙方術を総合・革新することを世に問い、漢代に発展した術数の学を養生の方技に応用し、日月の運行や陰陽の変化の法則によって煉丹の過程を描写し、金丹術と養性の術の理論体系の一つを作り上げた。

摘自:  仙学研究舎のホームページへ    胡孚   、 神坂風次郎 語訳

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