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道家とその思想

 中国には、古くは夏・殿・周という王朝があった。現在中国で行なわれている発掘の結果によって、これまでわれわれが思いもよらなかったような事実が続々と明らかにされつつあるので、将来また大きく訂正されるかもしれないけれども、いまのところでは中国にたしかに存在したもっとも古い王朝−正しくは部族連合国家というべきだろうI,殿だとされている。殿の存在がはっきりとたしかめられたのは、河南省安陽県小屯にある殿の都(大口巴商)のあと、すなわち股墟の大規模な発掘で発見された、数多くの甲骨文字の解読された結果だった。甲けんこうこつ骨文字とは、亀の腹甲や牛の肩肘骨などにきざまれた象形の文字で、漢字の原形である。その文章のばくじ内容は、王があることをしようとするときに神の意志を尋ねる伺いとその結果であって、卜辞ともいわれる。
 神意を尋ねる場合には、甲骨の裏面にくぼみをはり、そのまわりを火でやいて、表面にあらわれる割れ目によって吉凶を占ったが、割れ目のそばに卜辞をきざむ。発見された卜辞のすべてが解読されたわけではなく、末解読のものも多い。だから断言はできないが、解読された範囲内から考えてみると、殿の人たちほ大へん宗教性が強かったようだ。卜辞の内容が、戦争、まつり、王の地方巡幸や狩猟、天候、祈晴、たたり、病気など、国としての行事や王の日常生活などのほとんどすべてにわたっているからである。だから、殿代ではすべてのことが神意にしたがって行なわれていたといってもよいだろう。いわば神権的な政治だった。神意を尋ね、その結果を判断するのは王自身ではなく、貞人とよばれる一群の人々だったが、かれらは同盟している多くの族の族長だったということである。卜辞から推測すると、当時柁られた神々は殿王の直系の祖先神、同盟諸族の祖先神、もとの臣下たち、山・川・風・土地その他の自然神、天界の神などだったらしい。帝または上帝とよばれた至上神は、国としての政治や生産を左右する神、王にある行為・行動を指示し、かつそのことを保護する神、またはたたる神と考えられていたようだが、どういうわけかまつりの対象とはされなかった。けれども、つぎの周代にはまつりの対象となっているから、あるいは柁られていたのかもしれない。上帝は現世の王と同じような宮廷組織を天界でもつと考えられていたらしい。この考え方は、さきにふれたように、道教の神々が天界で現世と同様な官僚的組織をもつとされていたことに対応して、まことに興味がふかい。 それはとにかく、山や川、凧や雨、雷などの自然や自然現象は、至上神である上帝の下位にいる神神と考えられていただろうが、自然や自然現象などを神としたことは、股代の信仰がアェミスティックなものだったことを推測させるに十分である。これらの神々への信仰は、壬およびその周辺の人たちのものだったが、当時の一般の人たちも、おそらく王やその周辺の人たちにならって、同じような信仰をもっていたにちがいない。結局、殿代の神々やそれに対する信仰は、それ以後の中国の神々とそれに対する信仰の基盤になったといえるだろう。
 このような信仰とともに注意しなければならないのは、小屯の北方の村々で発見された、おそらくは王たちの墓と思われる大きな墓群からでた副葬品である。以前にかなり盗掘されただろうに、それでも豪華な祭器・楽器・兵器をはじめ、日常生活品などが数多く出土している。このことは、おそらく当時の人たちが、死んだ人は来世でも現世と同じような生活をすると考えていたらしいこと、いいかえれば・現世と来世とが通じていると思っていた証拠となるだろう。この考えは、のちの神仙説の成立に一役買うことになるのではないだろうか。しやしょくいまひとつ注音したいのは、社禝とくに社の信仰である。社は土地、禝は穀物の神だが、守屋美都雄氏は社を「原始聚落の中心」をあらわす標識と考える。そうだとすれば、社は当然初めから国家的権力に利用される性格をもっていたにちがいない。
 甲骨文にょって殿代の「土」について研究した赤塚忠氏ほ、殿代の「土」は同盟族長たちの信仰を統合するための象徴的祭壇としてつくられたもので、それが殿より一層整った形の周代のまつりに受けつがれて、統一国家意識の発達に寄与したと考えているが・その結果国土の守り神にそだっていったのにちがいあるまい。そうして、南北朝以後信仰さ周の神々と信仰れだす城陸神、土地公、墓の守り神の后土神などの源にもなったと思われる。殿にかわって国をたてたのが周である。この交代を天の命令が改まったためだとして、殿周革命という。上帝の命令が国の運命までも左右するのだから、上帝はやはり最高の命令者である。周の王はその命をうけ、その命にもとづいて政治をするのだから、周初の政治も神権的な政治とみてよかろう。これを別の見方からすると、王は至上神の意志を知り、かつ至上神に自分の考えを伝えることのできる人間ということになる。古代において、神に人間の意志を伝え、神の意志を人間に伝えることのできるのは、シャマンだった。だから、周王はシャマン、中国ふでいう巫だったとみても差し支えないことになろう。もっとも、殿でも神を祇るのは王だったから、殿王ももちろん巫としての性格をそなえていたということができる。だから、祭政一致だった。それが、時代が下るにつれて祭と政がわかれ、壬はもっぱら政治を、巫は信仰方面だけを司るようになるが、この巫の系列に属するのが、東周の後半期の戦国時代以後方士とよばれた人たちであり、さらに方士のある一面をうけついだのが道教の遺士だったのではないかと考えられる。もっとも、実際にはこの系列の関係はこんなに単純ではないにちがいない。そうして、巫の説いたことから、さまざまな古代の民間の信仰が起こったのではないかと思われる。巫の話がでたついでに、ここで巫のやったことを簡単に個条書きにして紹介しておこう。
 一、降神 神が巫の身体につくこと。いわゆる神がかり。これで神がその意志を伝える。 
 二、解夢 夢判断。夢は神が人々にその意志を伝える方法のひとつと考えられていた。
 三、予言 巫ほ神意を知ることができるから、ことの起こる前に伝えられる。
 四・祈雨 ひでりほ神の罰だから、神に許しを求める。これは主に女巫がやった。
 五、医術 病気は神また魔の罰だから、巫しか治せない。
 六・占足 尾の世界の動きを人間世界の現象の投影とみる、天人相関の考えの影響。人事の吉凶をいう。  七、呪い 除災招福の呪い。災いや幸福は神の意志によっておこる。

 なお・せむしなどの身体障害者はふつうの人間より霊力がすぐれているから、巫はこんな人たちだったし・孔子もそのひとりだったという説がある。まれにはそんな場合もあったかもしれないけれども・慎重に検討しなければならないことではなかろうか。背の高いと伝えられている孔子が、身体障害者だったとは思われないからだ。
 周では、殷代の考えの発展した結果か、西方や北方にすんでいた遊牧民の考えの影響をうけたためかはわからないが・天の観念が成立した。その結果、「天子」というよび方もできた。この天は、殷の上帝と同じような神格をもつとされ、政治と宗教の二つの方面に権威をもつことになるが、天命は人間の行なう徳によって左右されると考えられた。天の観念は、のちながく中国の人たちの精神生活を支配することになるのであるが、道家の説く「遺」もこの天の観念から導きだされたのではなかろうか。こうさいそれほとにかく・周代の天に対するまつりは郊祭といわれ、国家として大切なまつりとされた。郊祭とともに大切に考えられたのは、股代の祖先祭をうけついだと思われる宗廟のまつりと、社稜のまつりだった。周の社は、土をもって壇にし、その上にある神像をおいたという説もあれば、木・石・叢だったという説もあってよくわからないが、土壇をきずいたことだけは事実だったらしい。その上におくのが族祖神だったという説もあるが、時代が下ると、ある一定範囲の地域、もしくは共同体の守り神とみるようになった。こうして、日本の産土神に相当するような神が生まれることになる。なお、アこスティックな信仰も、殿代につづいて行なわれていたように推測される。

 

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